言葉との出会い
大学1年生の時、価値観や考え方、生き方を変えてくれた言葉に出会った。
それは興味本位で受けた教育学の講義で紹介された、下記の言葉である。
”あなたたちは頑張れば報われる、と思ってここまで来たはずです。……頑張ったら報われるとあなた方が思えることそのものが、あなた方の努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。”
(上野千鶴子(2019年度東京大学学部入学式祝辞より))
上記に引用した言葉は、2019年度の東京大学の学部の入学式で上野千鶴子・東大名誉教授(社会学:ジェンダー論)が祝辞として述べた一節である。
ある意味では、その同世代の学力競争に勝ち上がった者たちといえる「東大生」に、入学式という晴れ舞台で、まるで彼らの努力を否定するかのような言葉である。
しかし、社会学の立場からすると厳然たる事実である。
私はこの言葉を聞いて、自分が手にしていた当たり前を客観的に見るということを初めて行った。
自分の両親や、生まれた環境、育った街、学校、文化的資本、そういった生まれたときにすでに手にしていたものは、疑いのない当たり前の日常であり、自分と切り離して見ようという考えがなかった。
しかし、自分が持っていた当たり前を客観的に見ることで、自分がいかに恵まれているのか気が付いた。
私の家はお金持ちでもなければ、文化的資本にめぐまれた環境で育ったわけではない。
しかし、自分を愛してくれる両親がいる。夜道を女性が歩いても、過剰な心配はされない街で育った。受験のとき、第一志望に受からなかったときのために、親は滑り止めの受験料も払ってくれた。
今、本や映画を好きであることやこうしてブログを運営するには、書籍代や洋服、交通費、ブログ運営費など必要である。そのためにはアルバイトなど自分が稼いだお金を自分のために使うことができる金銭的余裕が必要だ。また、余暇に使う時間的余裕も持っていることになる。
とてもじゃないけど、挙げきれないが、何気ないことすべてが環境のおかげであったと気が付く。
私が生きていく中で獲得したものではなく、あらかじめ、用意された快適な環境のなかで獲得していたものであった。
しかし、私は上野千鶴子氏のこの言葉に出会うまで、この幸福に気づかずに、それが当たり前であると受容しながら、流されて日々を過ごしてきた。
一変した景色
上野千鶴子氏のこの言葉に出会ってから、日々の暮らしひとつひとつすべてが新鮮であった。
今まで当たり前として受け取っていたことへの申し訳なさや、当たり前であったことのありがたみ、人に対しての感謝、愛しさ、などたくさんの感情が生まれてきて、この感情をなんと表したらよいのかわからない。
少なくとも、日本語にはない。
この感情をどうにか言葉にするならば、セルビア語に”Merak”(メラク)という繊細で美しい言葉がある。
Merak:日常の中で起こるひとつひとつの小さな幸せから無上の喜びや至福を感じること
無知の自覚
上野千鶴子氏の言葉との出会いは、人を”理解”するときの考え方も教えてくれた。
人を理解するとき、自分を基準にしてはいけない。
例えば、私を基準(ふつう、平均)にして、犯罪者は異常などと。
”僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親が一つ忠告を与えてくれたよ。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が。お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないんだと」”
(スコット・フィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー(村上春樹訳)』より)
都内の駅に見かけるホームレスやニュースに映る犯罪者。今まで近づきたくない、関わりたくない、自分はなりたくない。と思っていた。
しかし、自分がそうならなかったのは環境のおかげであった。自分が普通の人だからではない。
自分はいつでも加害者になりうる。
もちろん環境だけのせいじゃない場合もあるだろう。しかし、そうである場合もあるのだ。
帰着点
悪人、善人、犯罪者、浮浪者、不良、毒親などレッテルを貼ってしまえばそれ以上その人を知ろうとしなくなる。
だから、その人の行動の理由、考えかたの根源、そう至った経緯、を”知りたい”と思う。そのレッテルをはがしたときの、その仮面を脱いだときの、彼を”理解”したいと思う。
そうして理解することは、必要な対策、求められている政策に気づき、提示することに結び付く。助けられる誰かの人生がある。
しかし、正しく理解しようとしなければ、数値をただ改善する政策が正しいと思ってしまう。
だから彼らの声に耳を傾けたい。
紹介
記事の中で引用させていただいた作品を紹介します。
グレート・ギャツビー/村上春樹訳