「俺が若いときはな、もっと…」
「女のくせに…」
このような言葉を罵り、苦い顔をされているおじさんをドラマでも現実でもみる。
言われたほうはこれらの言葉に、めんどくさく思ったり、「今は令和だよ、古いな」(そのうち令和も…)と憤りを感じるだろう。
しかし、ある言葉に出会ってから、そのような時代にそぐわない発言をすることや自分が若かった時の時代と比較をしたくなる気持ちも理解できる。
言葉との出会い
それは、雨瀬シオリ著『ここは今から倫理です。4』に出てくる、大学の教授と生徒の会話である。
生徒:先生の講義人気ないんですよ、差別的な事とか時代錯誤な事平気で言って…
先生:俺はその言葉が差別的だとは認識されていない時代に生きていたんだぜ、急には変えられねぇよ
”正しさ”がこんなに早く時代と共に変わるもんかね。おかしいよな、人間は何一つ変わってねぇのに”正義”だけが変わっていく。俺はな、「先生」やっててな、疲れちまったんだ。昨日と違う次の正義、に合わせること、その次の正義に合わせること、そんなことをしていたら自分の”芯”がばきばきになっちまうよ
今まで当たり前だったものが当たり前じゃなくなる。
今まで正しいとされた言葉や考え方まで、差別的・時代錯誤と受け取られてしまう。
それは、仲良かった子がクラス替えを機に、手のひらを返したような態度をとられてるような、そんな感じではないだろうか。。。
今ある当たり前を正しいとしている若者と、別の当たり前を正しいとしていたおじさん、そんな2種類の人が同じ時代を過ごし、暮らしている。
そうすれば、かみ合わないこともすれ違いもあるだろう。よく考えれば普通のことである。
先ほど紹介した『ここは今から倫理です。4』の先生は、嫌われていもいいから、自分の正義を選んだ。口ぶりからすると、彼(先生)は何度か、時代の変化を受け取ろうとしたのだろう。教師という指導的立場であるがゆえに。しかし、次から次へと変わりゆく正義に彼は自分の信じるもの、”コア”を見失いそうになったのではないだろうか。
今までの自分を貫く者、時代の変化に適応する者、時代の変化に逆らう者、無意識に変形できる者、そうやって、誰しも自分の決めたほうの道を歩いて生きている。
正しさとは
時代錯誤な言葉や考えをを持つ人がいても、それはその人なりの”正しさ”であることは間違いない。
しかし、「何が正しい」、「何が悪い」と考えたり、論じるとき、「誰にとっての正しさか?」「誰にとって悪いことなのか?」を欠落させて問いは適切だろうか?
「今どきの若い奴は…」、このような言葉は自分が今まで信じてきた”正義”を正しいとして、新しい正義をないがしろにしているように聞こえる。
これは片方を”正しい”もう片方を”正しくない”と自分の基準でジャッジして、2種類に分ける見方に陥ってしまっているといえる。
けっして新しい”正しさ”に同調するべきと主張しているわけではない、受容することも必要であるということだ。
反対に、時代錯誤な考えや言葉に出会ったとき、差別的である、”正しくない”と決めつけるのではなく、ある程度、”理解”することが必要であるということだ。
”正義”がぶつかってしまうのは、時代の変容が作り出した、前の時代と次の時代の境目にいるからなのだ。
嫌いな「彼」も彼なりの理由があると思うんだ
人はそれぞれ「正義」があって 争いう合うのは仕方ないかもしれない だけど僕の「正義」がきっと 彼を傷つけていたんだね
(SEKAI NO OWARI『Dragon Night』より)
帰着点
そのうち自分にとって新しい”正義”が支配する時代を生きることになるだろう。
そのときは、自分が信じたい”正しさ”と少しの受容と理解をもって出かけよう。
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これは私にとってはちょっぴり嬉しいことであるが、年賀状に追われなくなるお正月が来るなんて誰が想像できただろう。
紹介
記事の中で引用させていただいた作品を改めて紹介します。
①ここは今から倫理です
②SEKAI NO OWARI/Dragon Night